黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました

被害者になるのは恥ずかしいことなのか

父が車にはねられて入院した。頭を打ち、脳挫傷、外傷性くも膜下出血、急性硬膜下血腫と大そうな傷病名が並び、一時はどうなることかと思った。しかし、幸いにも意識は戻り、今はリハビリも始まった。
 
心配をかけまいと、私や弟には当初連絡がなかった。たまたま同級生のお母さんと話をしていたら「お父さんは大丈夫なの?」と聞かれ、姉に確かめたら本当だったので驚いた。その後、母から送信されたベッド上の父の写真は、何ともあどけない表情で、目を開けて、ちゃんと生きていた。
 
ひとまず安心。しかし、事故後の父の状態にいかにショックを受けたか・・などを姉から聞かされ、私の知っている父はもういないのかもしれないと、少し覚悟した。
 
初めて面会したのは、事故から1週間が経過した時点だった。熱が高かったが、父は私の顔を認めると「今回のことで耳が聞こえなくなった」とガラガラ声で訴えた。耳が・・・昔は近所の子どもたちにピアノを教え、オペラなど音楽好きな父だ。余生の楽しみが一気に失われるのかと暗澹とした。
 
今週になってまた面会。熱も下がり、割と意識障害は落ち着いた。言語リハビリを見学できたが、結論から言えば、言葉や動作のリハビリ後は簡単なものだったのにぐったり疲れてしまったし、認識違いも散見されたので完全にしっかりしたとは言えないが、今回のやりとりだけなら、昔の父の人格が存在していたようだった。まだわからないが。
 
しかし、相変わらず耳の問題は残り、自動的に私からは筆談だ。目の方も、受けたばかりの白内障の手術が無駄になったと言うので、持参した筆談用のノートには大きな文字を書いた。
 
耳の聞こえ方、目の見え方など今の体調について確認し始めた時だった。父は真顔になって「おまえは被害者支援の活動をしているのに、親が被害者になって恥ずかしいだろう」と言ってきた。いかにも悪かったね、という体だ。
 
私は「まさか!」とまず書き、「そんなことは全くない」とアンダーライン付きでひときわ大きく書いた。「なぜかと言えば、誰でもいつでも被害者にはなるからね。お互い様だよ!といつも被害者さんにも言ってます。明日、私が事故に遭っても不思議じゃないよ。事故のことを伝えた遺族さんも、心配してくれたよ」とダーッと書き続けると、「そうか」と父は下を向き、頭を下げるような恰好をした。
 
もし、父が意識的に私に謝るために頭を下げたのだとしたら、人生で初めてだ。

<なぜ父や私が恥ずかしい?>
 
どうして? 父は、青信号の横断歩道を、ただテクテク歩いてまっすぐ渡っていただけだ。それが目に入ったのに「止まったのかと思って」右折を続けた車の方がいけないのは明らか。どこが恥ずかしいのか。それとも、車を避けて忍者のようにヒラリと飛び退るとかしたかったのだろうか。いや、高齢者にはハードルが高すぎる。父が恥ずかしがったり、ましてや私が父の被害を恥ずかしがることなんか何もない。
 
しかし・・・父は「人様に迷惑をかけてはいけない」の意識が強すぎて、また、「被害者になった=弱い=恥ずかしい」と考える偏見があるのではないだろうか。
 
また、ここからテンプレの如く繰り返す。人間は、そもそもが弱いものだ。それを恥ずかしがってどうする。強くてパーフェクトだったら人間じゃなくて神。人は1人では生きてなんか行けない。だから「助け合う」のだし、「助け合い」は全然恥ずかしくなんかないでしょ。恥ずかしがらず、ありがとねって言えばいい。
 
「一方通行で助ける・やってあげる」関係は歪だ。そんなのは長続きしない。助け合いは、受益者が当人同士じゃなくても、巡り巡って・・が普通だ。
 
だから、父が「自分は常に強く、人の助けも要らずに生きてきた」なんて思っていたとしたら、考え違いだ。「人様」と言いながら人を信頼せず、協力を求める状況判断ができないのだとしたら、それは問題だろう。
 
たまに「被害者支援の活動をやってるの、偉いわね~」と言う人がいる。「いや~偉いことなんか1つもないですけどね」と答えても「謙遜してる」などと返されるが、そうじゃない。いつか、自分が支えられる番は来る(というか、既に人の力に助けられて生きながらえてきた)。今回も、現実にその支えられる時が父に来ただけだ。
 
常に支援者側でいられる人間は存在しない。立場はくるくる回転ドアのように、一瞬一瞬で変わるものだと思う。
 
最近も書いた、「まっとうに生きていれば被害者になることなんかない」という「公正世界(the just world)」に住んでいるとの錯覚。それが「被害者=恥ずかしい」の偏見の源だ。現実には、まっとうに生きていようが何だろうが、そんなの関係なく、加害者のせいで被害者は事件事故に巻き込まれる世の中だ。それなのに、公正世界の住人は「被害者になった方に問題があったに違いない」と、頭の中で被害者に鞭を打つ。ひどい話だ。
 
そんな錯覚による偏見に生きる方たちが被害者になった場合に、自分が被害者になった現実が許せない・受け入れられない要らぬ葛藤が頭をもたげてしまうのだろう。下手すると「馬鹿にしないで」と支援者を攻撃者とみなして抵抗もする。そうすると、必要な支援を受け入れるにも支障がでて、結果的に長く苦しむことになってしまう。
 
また、周囲までが迷路に入り込まされ、周囲の苦しみも長引くようにも感じる。社会的に不経済、損失だろう。やっぱり、「被害者=恥ずかしい」の偏見は、世間から取り除きたいものだ。
 
さて・・・父は、見え方の話になったとき「運転はできる。遠くは見えるから」と言った。しかし、父には運転こそ止めてもらいたい。加害者になって人の命を奪いでもしたら・・・お父さん、私はそれは確実に恥ずかしく思うからね、と伝えなければならない。