黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました

「愛の鞭」で追い詰めてないか

メニエール発作など色々あって、ブログはずいぶんとご無沙汰になってしまった。文章書くのが仕事のはずなんですけどねー。

左方向や下方向、斜め左下なんかを見ようとすると、ぐらあ~からのグルグル回転が始まってしまったり最悪で、パソコン画面を見つめているのはほぼダメだったのだが、スマホは寝転がって持ち上げて見れば楽なので、そちらでブツブツつぶやいたりしたこともあった。でも、ガス抜き程度にしかならないですねえ。

最近、調子が良くなってきた。こうやって何かをパソコンで書けるってありがたいことだ。

さて、ツイッターでロシアの格闘技の選手が、試合でフルボッコにされた上にリング脇にいた強烈カーサンに平手打ちを繰り返し食らう、との記事を見た。このオカーサン、自分の息子が華々しく勝利する姿を夢見ていたんでしょうけど、その期待を息子が裏切ったものだからこの行動に出たんでしょうね。「愛の鞭」だと記事の中には書いてあった。

愛の鞭、叱咤激励・・・とか言うけれど、きれいに言いすぎだ、単なる鬱憤晴らしでしょ、と最近感じることがよくある。このロシアの選手の場合は、「悔しかったら勝ってみろ」と、カーサンのイライラのせいで叩かれても、よっしゃ!と頑張れる反発心というか、まだ元気があるかもしれないけれど。それどころじゃない、という場合に傍から見えていても、叱咤激励コースが捨てられない強烈オカーサンたちに最近多く遭遇しているというか、目についてしまう。

期待に応えられない子どもやパートナー。その人が大失敗したり、人生最大のピンチに心身ともに陥っているとき、誰が一番残念だと感じていると思います? 本人だと思いますよ、家族であってもオカーサンじゃなくて。本人の心は本人のもの。家族といえど、本人のすべてを分かっているはずはない。

例えば犯罪被害などという、人生に一度あるかないかの大事に直面して、どうしていいかわからない人は山のようにいる。それを「どうしてうまく切り抜けられなかったんだ」「なんで被害に遭ったんだ」「被害に遭うような弱い人間、負け犬はうちの家族じゃない」ってオカーサンが被害者差別丸出しで叩いてしまったら、被害者は悲惨だ。

被害者は、被害に遭う遭わないを選べない。忍者でもなければ、人を超えたスピードで動いてくる物を避けることなんか無理ですよ。また、加害者からターゲットにされてしまったら、どんなに注意を払ってたって通常の事では逃げられませんよ、敵は用意周到に準備しているんだから。

被害者差別の激しいオカーサンほど、自分が大きな期待をかけている家族が被害者になり、傷ついている状態にあることが許せないみたいだ。被害者=弱者との考え方から、常に強者・勝者でありたい希望があり、変な自分の誇りがあって許せないのか。それで、その路線から外れた被害者を叩く。

「愛の鞭」との美名の下、遠慮ない攻撃になりがちだから、被害者にしたら最大の二次被害になっているのではないか。その被害者本人だってオカーサンの期待に応えたい。でも今の自分にはできないと分かってしまって残念この上ないのだ。それで、生きる気力も失う場合もあるのではないか。

若い世代の死因第一位が自殺だっていうのも、犯罪被害に限らず、こういう強烈オカーサンたちの家族への向き合い方に何かしら関係あるのではなかろうか。

ある被害者について「家で朽ちていくのを見ています」って苦笑いをして見せたオカーサンには絶句した。いやいや、「恥ずかしい娘」だと見なして、朽ちさせようとしてませんかね・・・まさか?(本当に恥ずかしいのはどっち?)  そして、「生きててよかった」とか、小さな小さな気力を本人が少しずつ育てようとしても、自分が描く大きな期待に届かないからと、本人の再生力を否定し奪い取っていないだろうか。

よそ様からどう見えたって、良いじゃないですか。生きてくれている。生きてるだけで丸儲け(byさんま)。そこに感謝するところからじゃないと、何も始まらない気がする。

もちろん・・・オカーサンなりのグリーフはあるでしょうし、それを誰かが聞くことも必要だろうけれど、まずは被害者ファーストだと思うので。