黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました

京都・亀岡で繰り返された悲劇

 謝罪を力なくぼそぼそと繰り返す加害者少年の父親は、少年法によって少年を特定させない配慮から顔を映さない代わりに胸元のTシャツの文字ばかりが大きくアップになって映っていた。その文字はこう読めた。Frustrated with what's going on…(今、起きていることにイライラしている)。まさか、確信犯だとは思わない。しかし、息子がやったことで頭を下げさせられ、さぞむかつくだろうとは思うが、自分以上にイライラを通り越して怒りを感じている人ばかりの状況の時に、とんでもないTシャツを着てテレビに映ったものだ。
 
 前回、被害者について書いた際に京都・祇園の暴走事故について取り上げたばかりだったので、まさか同じ京都府内で、不埒な暴走事件がもう起きてしまうとは思いもしなかった。京都府亀岡市で集団登校中の児童と付添いの保護者10人が、無免許で居眠りの少年の軽自動車にはねられて死傷した件のことだ。いつも笑顔だった小2の女の子と、妊娠7か月で小1の娘に付き添っていた保護者の女性が亡くなった。先週女の子だと判明したというおなかの赤ちゃんも、助からなかったのだそうだ。
 
 少年は18歳、同乗者の大学生と専門学校生も同い年。3人とも無免許で知人の車を乗り回し、事故前にはもう1台の車を合わせ、仲間が何人も暴走行為に加わっていたとか。前回、「車は凶器になるものであり、運転免許は決して軽く扱っていいものではないはずだが、残念ながら一般的にはあまりにもフツーの感覚でとらえられている」というようなことを書いたが、この少年たちに関しては、フツーを通り越してまったく注意を払う気もなかったのは明らかだろう。
 
 何しろ、無免許なのに居眠りだ。ブログには「趣味はドライブ」と書いていたとか。本当ならば、どう考えたらいいのだろうか。こんな人間がハンドルを握るのを、何とか止められないだろうか。
 
 以前、ベストセラーになった「人間を幸福にしない日本というシステム」という本があった。日本に長いジャーナリスト、カレル・ヴァン・ウォルフレン氏の著作だ。日本では民主主義がいびつに発達し、民主主義の中心であるべき「人間」の幸福よりも、「産業」の発展こそが命題化されている・・・といった内容が含まれていたように思うが、そのことをふと思い出した。
 
 前回書いた、てんかんといった意識を喪失してしまう疾患もそうだと思うのだが、今の日本の技術力を、人間の幸福のために存分に発揮したとすれば、今回の事故は防ぎえたのではないのだろうか。それを自動車産業界が負担するコストがどうのと言って、人間を守るためには生かせていないとしたら、非常に残念なことだ。
 
 例えば、事故発生を知ってテレビをつけたらやっていた日本テレビ系ワイドショーの「ミヤネ屋」では、キャスターの宮根誠司が「ETCカードのように、運転免許を差し込まないと運転できないようにしたらいい」とさらっと言っていた。ちょうど私も考えたところだったのに…と変に先を越されたような気になったが、同じようなことは誰でも考えついたのではないだろうか。それなのに自動車メーカーがこれまで考えつかなったはずはない。
 
 ETCカードアメリカでは標準化されるような話も、デーブ・スペクターがその場でコメントしていたが、免許証を車のカードキーとして利用して、無免許者の運転を抑制することなど、今や「できない」などと言われても誰も信じないと思う。他人の免許を使おうとする場合もあるだろうから完全ではないにしても、他人の免許を勝手に使えば窃盗になるだろうし、分かって免許を貸した人間も、主犯が問われる罪の最低でも幇助犯として裁いてもらえるようにすればいいのではないか。
 
 また、ドライバーの心拍数から眠気を感知して停止させる装置も、確か既に開発されていたはず。何かに衝突する寸前で勝手にブレーキがかかる車両も、CMで頻繁に見かけるので、そういった事故を防ぐための技術を、国民の安全のために政府の音頭取りでどんどん標準化していけば良かっただけの話ではないのだろうか。
 
 交通事故の死者が減少している中、歩行者が犠牲になる場合はあまり減っていないそうだ。そのことから、車が歩行者に衝突しても衝撃を吸収できる車(つまり、内部を守りつつもアウターだけが壊れやすい車ということだろうか)が開発されて推奨されるらしいのだが、まず衝突させない努力を技術の上でしてもらいたいと思った。
 
 そして、その技術を故意に破ってまでも運転しようとする人間には、迷わず厳罰を与えたいところだ。
 
 こう書くと、「つまりはドライバーの良識に頼ることをあきらめているのか」と思ったりもする。しかし、こう他の迷惑を顧みない自己中心的で常軌を逸した運転手によって引き起こされる事故を無くすためには、道交法上の無免許運転の罰則をかなり引き上げるのも空しいような気がして、もう徹底的に機械に頼るしかないような気がしている。
 
*    *    *
 
 この事件については、地元署の交通課係長の警部補が、加害者父に懇願されたことから被害者側の同意を得ないで加害者側に連絡先を教えていたことが明るみに出て、警察が謝罪するしかない状態に陥っている。保護者として付き添って亡くなった妊婦の遺族が、通夜・葬儀を控え、司法解剖を終えて帰ってきただろう遺体を前に、重傷を負って入院している小1の娘に母親が死んだことを告げるかどうしようか悩みに悩んでいるときに、亡くなった女性の携帯に加害者の父親からの着信があったというのだから、これはもう何て酷いことをしてくれたんだ、番号を教えたのは誰かと皆が感じたのではないかと思う。
 
 警察庁長官も「極めて軽率で不適切」だと定例会見で述べたという。府警の監察官室は、地方公務員法守秘義務違反を視野に調べを進めるらしい。
 
 問題が発覚した当初、26日未明の地元署長の記者会見では、例の警部補は「口頭」で加害者父に伝えたことになっていた。それが苗字と電話だけ、といった限られた情報ではなく、救いようのないことに死傷者全員の名前、生年月日、住所、電話番号、収容先の病院がわざわざ作成されたA4のリストに収まって加害者側に渡されたと、後の府警の会見では訂正されたというのだから、これはもう物証の上からも警部補の容疑は免れないと警察も観念したということだろうと思う。
 
 もしもこれが口頭で伝えられ、警察側が知らぬ存ぜぬと言い張っていたとすると、証拠不十分で立件はされなかったかもしれない。こうやって被害者の連絡先を同意なく先方に伝えてしまうということを、これまで警察がやってこなかったとは全然言えないと私は思っている。ただ、今回のように馬鹿丁寧に証拠を残すようなことをしなかっただけの話ではないのか。その証拠を、なぜ今回警部補は残すようなことをしたかと言えば、きっと罪の意識が全然なかったから。つまり被害者の方を向いていなかったからだと思う。
 
 事件・事故の直後は「マスコミに注意して」と警察は被害者に伝えるものだから、メディアはたいてい追い払われる。後から被害者に確認してみると、そんなお願いは被害者側ではしていなくても「被害者が望んでいるから」と警察が取材を断ってしまうこともある。そうすると、被害者が警察に不当なことをされても表には出にくくなってしまう。
 
 今回、被害者はテレビカメラを入れて署長の謝罪を受け、了承もなく加害者側に被害者の情報を教えたのはおかしいと訴えていた。問題は白日の下にさらされ、多くの視聴者が賛同しただろう。誠に正しいメディアの使い方だと思った。
 
*    *    *
 
 この事件については、もう1つ書いておかないといけないことがある。被害者が搬送された医療機関の関係者が書いたブログが、朝日・毎日・読売の名前を出してマスコミ批判をしたという。朝・毎・読の三社は、しかし、病院の関係者の監視のもとに限られた範囲での取材活動を行っていたのであり、ブログが指摘したことは事実ではないと反論しているという。
 
 こういう誰もが悲しむ事件が起こると、往々にして怒りをぶつけやすい方向に発散する人がいることは事実だなと、私も記者として取材活動をしていた時には身を以て感じていた。どんなに被害者自身には感謝をされても(感謝をされるようなことがあるとさえなかなか信じてもらえなかったが)、なぜか事情を知らない周辺の人間に怒りをぶつけられることは日常茶飯事だったし、してもいないこと・言ってもいないことが私がした・言ったことにもされた。
 
 しかし、マスコミの人間は叩いて当然、それが正義なのだと一般に思われるような事態をここまで招いてしまったのは、社会の報道への理解を得るような責任や説明努力をほとんど果たして来なかったメディア側の方なのだろうと思っている。
 
 今回の個別の件では事情が全く分からないので何とも言えない。今後、段々明らかにされていくのだろう。ただ、説明不足のメディアのためにひとつだけ書いておくと、どういった注意をメディアが払いつつ取材をしているのか、メディア側のルールを知りたい人のためには格好の本がある。
 
 ちょうど改訂された朝日新聞社の記者ハンドブック「事件の取材と報道2012」がアマゾンでも買える。どこの社も同じような取材のためのルールブックは昔から改訂を重ねて存在しているのだが、朝日のように公開しているのは貴重で、一般の人が読むと目からウロコ、という部分も多くあるかもしれないと思う。
 
 それと、文頭近くで触れたウォルフレン氏の「人間を幸福にしない日本というシステム」。キーワードにあった「偽りのリアリティ」には、メディア悪者説ももしかしたらあてはまるのかもしれないと思ったりもする。真の民主主義のためには必要不可欠なものなのに、その民主主義の主役の市民によってこれほどまでに叩かれているのはなぜか。その視点で2冊を読んでみるのも面白いと思う。