黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました

被害者対応、何が悪かったのか

 ゴールデンウィークが始まったばかりの日曜朝に、関越での大事故の報に接した。テレビ画面では、ディズニーランドに向かう観光客を、少し前まではたくさん乗せていたバスが、高速道路わきの壁に突き刺さっていた。既に7人が死亡しているという。このように最近、交通関係の悲惨な事故が続くと、大して信仰心が深くなくても「これは神の啓示か」と考えたくなる。物事を動かす立場の方々が、何も感じず何も改善方向に動かないとしたら、恐ろしい。
 
 京都・亀岡の事件でも、さらにもう1名の児童が亡くなったそうだ。この事件に関して、被害者の了承もなく死傷者10名の連絡先や生年月日などのリストを作成して地元警察署の交通課係長が加害者父に渡し、警察側が謝罪に追い込まれていた件は、問題発覚のきっかけとなった保護者女性の携帯番号だけについては、警察ではなく、小学校教頭を通じて加害者側に伝わっていたのだという。前回の文章脱稿後の報道で知った。
 
 加害者父は、メディアに対して「警察からもらったリストに保護者女性の番号だけなかったため、知り合いを通じて教えてもらった」と答えたという。亀岡署が渡したリストは既に加害者父からは回収されたが、そのリストには、もともと空欄だったところに亡くなった女性の携帯番号や告別式の日程が手書きで書き込まれていたのだそうだ。
 
 死亡女性の携帯番号は確かに教頭からの情報なのだろう。でも、だからといって死傷者10名の詳細なリストまで作成し加害者側に渡した警察の責任は、それで変わるものではないことは確認しておきたい。
 
 ここまでの一連の報道を見て「被害者の肩を持つ」と宣言してこのブログを書いている私が気になったのは、「加害者が連絡先を求める気持ちもわからないではない」と同情的に言う人がいたこと、「被害者と加害者のどちらを保護すべきなのか」との投げかけがテレビでの議論の際に司会者によってされていたことだ。また、「何がいけないのかわからない」雰囲気でコメントをしているコメンテーターも散見された。
 
<自分だけ謝罪できればそれでいいのか>
 
 まず、「加害者が連絡先を求める気持ちも分からないではない」について。被害者の支援者としては拙いが、私なりに書いてみたい。
 
 27日朝のテレビでは、未明に会見したという小学校の教頭が不明を恥じ、謝罪する様子が放送されていた。その時に加害者の伯父という人の「こちらが謝罪も何もしないでいては許されないと思った」といった発言も放送されていた。つまり、加害者側としてもそれなりに必死にツテを探して連絡先を入手したということで、それに警察も小学校もほだされてしまったということなのかもしれない。
 
 加害者の父が死亡女性の携帯番号を入手していたことについては、テレビ朝日でコメンテーターとして出演していた吉永みち子氏が「大きな事故でも、『個人情報を盾に警察が入院先を教えてくれないから被害者のご家族がいくつも病院を探し回った』という行き過ぎた個人情報保護の問題を聞くようなこのご時世に、この加害者だけがどうして被害者の情報をこうも簡単に入手できたのか。何か特別なものでもあるのか」と疑問を呈していたが、私も「大した取材力だ」と変な感心をしてしまった。
 
 しかし、被害者の心情も顧みず、自分だけ形だけでも謝って楽になれればそれでいいのだろうか。なぜ、被害者を思いやり、事故直後の嵐が通り過ぎるのを待ち、謝罪したくても謝罪できない苦しさに耐えることができないのだろう(遺族に言わせれば、家族の命を奪われることに比べたら、謝罪できないぐらいは、苦しみでも何でもないかもしれない)。
 
 少し想像力を働かせれば分かるはずだ。加害者は、今回のケースでは被害者側にとっては「殺人者」に他ならないと見られている。一方的に家族が「殺された」ような被害に遭い、まだ日も浅いのに、どうして被害者側が、加害者側の関係者の顔を見たり声を聞くような我慢を強いられなければならないのか。
 
 もちろん、ゆくゆくは謝罪に出向きたいと例えば警察に伝え、「間接的に意思を示す」ことはあっても良かったと思う。なにしろ、時期が悪い。
 
 伯父は「謝罪をしなければ許されない」と言っていたが、通り一遍の謝罪を今の段階でしたって、到底簡単には許してなんかもらえない。それだけ、人の命を奪うということは重いことだ。不倶戴天という言葉がある。この事件ではないが、加害者とは同じ空気を吸いたくないと言う被害者も多くいるぐらいなのだ。
 
 事故直後で、遺族の心は、ぱっくり開いた傷口から血がまだ滴っている。この人たちの心を鎮めることなど、この時期に誰にできるだろう。正解はないだろうが、そこに加害者が無理に謝罪と称して接触を図れば、余計に「許されない」状態に陥ってしまうだろう。加害者側の意図とは逆に転ぶ。
 
 だから、コメンテーターの方には、「加害者が連絡先を求める気持ちもわからないではない」に続けて「しかし、方法も最悪だし、少なくとも被害者の心情を尊重して時期を見るべきだった」ぐらいにはコメントしてほしかったと思った。
 
<死亡女性の携帯は、今は「形見」>
 
 次に、「方法が最悪」とも同じだが「何が悪かったのかわからない」について。交通課係長と小学校教頭。彼らは何が責められているのか。「事故当事者の連絡先は当然に教えるものではないか」という疑問もあるようだ。
 
 亡くなった女性の父親は、「加害者の方は少年法で名前が出ないのに、被害者の方だけ名前が出る」「こちらは誰に殺されたかも分からないままに葬儀を出さなければならない。その気持ちが分かるか」とテレビで訴えていた。当然ながら、大切な遺品ともいえる、亡くなった女性の携帯の番号を教えることについて、この父親も夫も了承していないとも言っていた。この段階では警察が漏らしたと思われていたので、「警察に裏切られた」とも言っていた。
 
 つまり、「一番加害者には触れられたくない大切な情報が/被害者を守るべき立場の人の手によって/被害者の知らないところで/一方的に」加害者側に伝わったと被害者は感じたのだ。これは不公平で不当だと感じても当たり前ではないのか?
 
 亡くなった女性本人の携帯は、前述の通り、今や存在の意味が変わった。家族にとっては大切な「形見」だ。そこに加害者側の着信履歴なんか残したいと誰が思うのか。それなのに、番号を教えた小学校教頭は、その意味の変化が分かっていなかった。教頭の中では単なる携帯番号だから、簡単に教えたのだろう。
 
 これが夫や父親の番号だったら、事前了承がないのは不快だったにしても、ここまでの心情的な反発は引き起こしはしなかったのではないか。遺族の番号ではなく、伝わったのが亡くなった女性の番号だったというのが、あまりに遺族の心情を逆なでする無神経な仕打ちだと言え、当然の怒りだと思う。
 
 「事故当事者の連絡先は当然に教えるもの」と、警察が死亡女性の携帯番号を伝えたとされた当初報道を是認した疑問にも、「女性本人の携帯」がはらむ「遺族にとっての意味の変化」を見逃しているから出てくるのだろう鈍感さを感じた。もう、単なる連絡先ではないのだ。
 
<許されない一方通行>
 
 これが遺族の番号だったとしても、何度も指摘されているように、遺族は被害者情報の伝達を了解などしていない。他の9人については不明だが、少なくともこの死亡女性の遺族は、報道に見る通り、問題発覚時は加害者情報を何も知らされていなかった。
 
 今は被害者情報を保護する意識や、被害者への連絡制度が警察にも広まっていると思っていたが、その流れに乗っての加害者情報を被害者に教える一方通行ではなく、今回は被害者情報を加害者側に伝える一方通行がなされたのだから、私には驚きだ。「警察に裏切られた」と被害者遺族に思われても仕方ないだろう。
 
 さらに譲歩して考えても、事務の関係上必要で「事故当事者の連絡先を教える」なら、最低でも「双方に同時」に伝達されるべきだった。そして、伝える情報は、知らせる相手を伝えた上で被害者が認めた連絡先にするべきだった。
 
 1996年の「被害者対策要綱」の策定以降、「被害者保護」は「捜査」と並ぶ2本柱と称されているのだから、警察は明らかに被害者保護の任にある。だったら、①警察が責任を持ってきちんと加害者側の連絡先を被害者側に伝え、②「手続き関係でも必要になるから」などと丁寧な説明の上で被害者側の連絡先伝達についてしっかり了承を求める必要があっただろう。
 
 そうしていれば、被害者の加害者に対する怒りはあったにせよ、「事務的なことで致し方ないもの」との理解が生まれる余地もあったかもしれない。被害者の警察への信頼は、こうまで失われなかったのではないかと思う。
 
 そして、小学校の教頭にも、常識的に考えれば被害者への積極的な保護を期待したいものだが、それが万一無理だとしても、せめて教育者として中立を守る務めがあったのではないのか。中立の仲介者として、被害者側の了承を事前に求め、その段階でどの番号ならば伝えてもいいのか許可を求めるべきだった。被害者側が「いやだ」と断れば、伝達役に徹して「嫌だそうです」と加害者側には伝えるべきだった。何も難しいことではない。
 
<保護すべきはどちら?>
 
 最後に、「被害者と加害者のどちらを保護すべきなのか」との投げかけについて。この言葉は、ある番組の司会者がコメンテーター陣に問いかけていた。
 
 議論を活性化させる目的や、逆説的に「加害者なんかより被害者でしょう」と言わせる意図があったと思いたいが、犯罪被害者等保護法や被害者等基本法が国としての答えを既に出している中で、大真面目に天秤にかけていたとしたら、感覚を疑わざるを得ない。「過失割合6対4ぐらいの物損事故」程度に今回の事故を考えているのだろうか。
 
 そのような物損事故なら、形式的に加害者・被害者が分かれていたとしても、実質的には当事者として同等に扱えるものなのかもしれない。しかし、今回のような一方的な悲惨な事故は、被害者の受け止め方は「殺人事件」であり、どう見ても違う。
 
 憲法上や司法制度上で「対国家」を考えて加害者権利が保障されてきた「国と加害者」二者間の問題と、「国・加害者・被害者」の三者間の問題とを混乱して考えているのかもしれない。二者間の話ではなく、加害者が比べられる相手が被害者の三者間の問題ならば、被害者に対して、既に加害者がどんな重大な人権侵害を与えたかをよくよく頭に入れれば、どちらを優先して保護が与えられるべきかは自ずと分かるはずではないのか。
 
 それを後から、事件事故によって生じた人権侵害のマイナスポイントに目をつぶって被害者と加害者を表面的に平等に扱おうとすれば、まるで江戸時代の喧嘩両成敗のように、実質的には、既に損害を被っている被害者側のマイナスは残る。大いなる不公平をはらむものとなってしまう。
 
 国家として自ら侵害することになる被疑者・被告人の権利を自らの責任で法的に手当てするところが先行し、その傍らで被害者が打ち捨てられていたことに、20世紀も終わりごろになってやっと国は気づいた。国が法で自らの手足に枷をはめなければ明らかな不公平が生じる二者間での加害者の権利の場合と異なり、被害者の方は、国が積極的に法整備せずとも、常識で考えれば社会や民間人が勝手に保護や援助の手を差し伸べるだろうとの考えもあったのかもしれない。
 
 しかし現代では、相互扶助の意識などは薄れてしまい、被害者は十分な援助や保護が得られないままだった。その反省から、国が民間とともに遅まきながら被害者保護に乗り出し、制度を整える努力の途上にあるのだとの理解を、私はしている。国費の投入の程度は、まだまだ加害者側に比べて大きく水をあけられているが。
 
 結局、個人としては、人は素直に本来の常識に従えばいいではないか。倒した人A、倒された人Bがいたら、倒された人Bを私たちCは気遣うはず。社会が先んじていたわり、保護すべきは、事故や犯罪といった社会のひずみを私たちの代表として経験させられている、被害者の方だ。