黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました

「被害者なき犯罪」でいいのか

 京都・亀岡での無免許の少年の暴走によって集団登校中の児童ら10人が死傷した事件で、暴走事件に使われた車両の持ち主の19才の少年が、道路交通法違反(無免許運転)の教唆で7月2日に在宅起訴されたとの報道があった。
 
 罪名を見て、そうか、道交法違反の教唆にしかならないんだよな…と何とも言えない気持ちになった。
 
 それはそうだ。主犯というか、運転していた少年は無免許運転の常習犯といい、どう考えても悪質であるのに、常習だったがゆえに「技能未熟には当たらない」という見方をされてしまい、非常に残念だが、危険運転致死傷罪ではなく自動車運転過失致死傷などの罪で既に起訴されている。だから、共犯の車両所有者の方が危険運転致死傷罪の教唆になるわけがなく、道交法違反の教唆にしかならないのは仕方ない。
 
 この罪名の違いは、被告人に言い渡される刑罰の量刑に響くだけではない。被害者の扱いに大きな影響が出てくる話なのだが、あまり知られていないのではないか。どう違うかというと、ある被害者に言わせれば、「天と地ほどにも」違う。
 
 「天」の場合は、被害者は法律上「被害者」としてきちんと遇され、場合によっては「被害者参加人」という裁判の当事者に準じた特別な地位を与えられる。他方、「地」の場合は、実質的には事件の被害者なのに、法律上は「被害者」として認められないということになってしまう。
 
 どういったことなのか。
 
 まず、「天」の場合だ。既に起訴され、初公判は7月19日に予定されているという運転手の裁判では、被害者側は「被害者参加制度」を利用して刑事裁判へ被害者参加をするらしい。自動車運転過失致死傷罪は参加制度の対象になっているから、この運転手の裁判では、よほどのことがなければ被害者側は「被害者参加人」として、堂々と法廷内に座って被告人質問をしたり、情状証人に尋問したり、論告求刑ができるはずだ。裁判に先だって、証拠関係も早い段階で閲覧できるだろう。
 
 そういったことは、「被害者参加制度」の対象事件だから、できることだ。
 
 こちらの裁判では、被害者側が「被害者参加制度」を利用せず「参加人」にならなかったとしても、単純に法律上の「被害者」として、「被害者の意見陳述制度」に基づいて意見を述べるという方法もある。
 
 また、法律も認める「被害者」だから、優先的傍聴が認められるので傍聴席は確保してもらえるだろうし、検察官による冒頭陳述の要旨を書いた書類も、問題なくもらえるだろう。毎回の公判終了ごとに裁判記録を見たり、コピーもできるだろう。それは、被害者が意見陳述をするにあたり、内容を知らないままに意見は言えないだろうということで必要だからだが、何よりも真実を知りたいと願う被害者には大切なことだったりする。
 
 他方、車両所有者の少年の裁判では、どういうことになるのだろう。「地」になってしまうのではないか。それはなぜかと言えば、車両所有者の少年が起訴された「道路交通法」では、法律上の考え方では「被害者を想定していない」のだそうで、そのゆえだ。
 
 一般の常識からすると、どこからどう見ても死傷した10人はあの暴走事件の被害者で、被害者側は車両所有者の少年に対しても裁判でひとこと言ってやりたいと思っているに違いないのだが…だが、法律の上では、あの事件の車両所有者は「無免許運転をさせた」までが問われるのであって、その後の死傷の結果までは責任を問われているわけではない。
 
 その考え方に従うと、死傷被害者10人の側は「この車両所有者の直接の被害者ではない」となってしまう。理不尽な話だ。
 
 そうすると、この所有者の裁判では、実質的に被害者でも、「被害者」として法律上は扱われないので、通常ならば「被害者」ができる、先ほど「天」の場合に書いたような事がらが「させてもらえない」ということになりかねない。
 
 私が知っている狭い範囲だが、これまでの道交法違反での被害者の扱い例を見ると、特別傍聴券は「温情で」確保してもらえても、裁判記録の閲覧謄写はさせてもらえていない。被害者として、意見陳述もできなかった。検察官が工夫をして、意見陳述の代わりに検察側証人として証言させたということはあったが、被害者側の要望を受けての苦肉の策だった。
 
 さらに、所有者の道交法違反の裁判は、罪名が被害者参加制度の対象事件ではないわけだから、もちろん被害者側が「参加人」となって法廷内に席を与えられることもない。被告人に直接質問などできないし、情状証人に尋問もできない、論告求刑もできない--ということになるだろう。
 
 しかし、この亀岡の事件は、世間の耳目を集めている事件なので、もしかしたら「大きな配慮」が被害者側にあるかもしれない。「被害者参加人」並みの扱いは無理でも、法律上の「被害者」並みに相当近づけて扱ってもらえる「温情」があるかどうか…そこのところは、実際にどうなるのか本当に何とも言えない。
 
 ただ、そもそも、「温情」でなくたって当然被害者として扱われるべきだと被害者側は思うのではないか。「被害者なき犯罪」などという概念が、そもそものそもそも、必要なのだろうか。「被害者なき犯罪」と言われていても、長いスパンで、そして広い範囲で見てみれば、実のところ影響を受けて泣いている人は存在するのではないのか?
 
 今回の件で、もし「温情なし」の扱いが杓子定規に実行されてしまうとしたら、どうなってしまうだろう。被害者側にとっては、この「天と地」の扱いの差は驚きなのではないだろうか。事件はひとつだったはずなのに、個々の被告人によって、裁判での被害者への対応が変えられてしまうのだ。
 
 前回のブログ記事でご紹介したご夫婦は、この道交法での「被害者なき犯罪」との扱いを変えてほしい、と当時の法務大臣に面会して直談判したことがあった。それに先立ち、法相は国会の法務委員会で質問され、被害者を門前払いしないよう「何か工夫があっていいのかな」と被害者に配慮するような答弁をしていた。
 
 ある法律の専門家も、被害者保護法で言うところの「被害者」については、きっちりした定義があるわけではないのだから、「間接的な被害者」も「被害者」として拡大解釈したらどうだろうかと言っていた。
 
 別にそれで被告人に大した不利益があるわけでもないように思うので、せめて「被害者」として傍聴席に座らせて、意見陳述ぐらいさせてもいいのに…と、私は個人的には拡大解釈論には大賛成だ。
 
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 ここで、ぐだぐだと相も変わらない愚痴を…だけれども大切な点だと思うので書けば、返す返すも残念なのは、主犯の運転手が自動車運転過失致死傷罪での起訴にとどまり、危険運転致死傷にならなかったことだ。
 
 主犯が危険運転なら、共犯の車両所有者も危険運転の教唆になる可能性もゼロではなく、そうなれば、所有者の方も結果の重大性を問われ、裁判は被害者参加制度の対象にもなる。被害者の方たちは、運転手も所有者も、どちらの裁判も堂々と「被害者参加人」になれたはずだった。
 
 そして、当然「被害者参加人」だけでなく、法律上れっきとした「被害者」でもある。そうなれば、「被害者なき犯罪だから被害者はいない、だから、あなたたちは被害者ではない」などとあのご夫婦が検察官に冷たく言い放たれたように、被害者が言われる恐れも生まれなかった。
 
 亀岡の被害者の方たちは、目の前に迫った運転手の裁判に一生懸命だろうから、車両所有者の裁判についてはまだお気づきではないかもしれない。が、気づいた時は、やりきれない思いに襲われるだろう。なぜ共犯の裁判では、法律は自分たちを「被害者」として認めないのか…。
 
 それが納得できず、捜査当局が道交法違反の立件でお茶を濁そうとしたのを許さずに、先ほどのご夫婦は「危険運転致死傷罪の共同正犯」で共犯者を「告訴」した。
 
 その結果、「共同正犯」が従犯である「幇助」に格下げにはなったものの、見事、危険運転での起訴になった。つまり、被害者が自分の手で、法律上の「被害者」の立場のみならず「被害者参加人」という立場まで勝ち取ったのだ。
 
 交通犯罪でも「告訴」という伝家の宝刀は、基本的なもので忘れられがちだけれど、実は被害者がまだまだ使える武器なんだな…と、私も見方を改めさせられた。目からウロコがぼろぼろ落ちるとはこのことだ。
 
 今回の亀岡の事件では、被害者側の周囲の人に「告訴」についてお耳に入れた人がいるのだが、被害者にお勧めするには至らなかったようだ。その代わり、危険運転致死傷罪の適用を求める署名運動は大々的に展開されていた。告訴の成功例もあるのだし、なぜ費用もかからず被害者だけでできる告訴を回避したのか分からないが、何か事情があるのだろう。被害者の最終兵器での失敗を恐れてしまったのかもしれない。
 
 運転手が自動車運転過失致死傷で起訴されてしまった以上、亀岡の事件の場合、残る望みは訴因変更ということになるのだろう。
 
 それもダメだったという場合は、今回の事件はともかくも、今後の被害者のために法改正を求めていく…ということになるのかと思う。今回のことで署名もかなり集まっていたのだから、多くの市民の意識を喚起することにはつながったはず。きっと、法改正を求める段階になれば、それが生きてくることだろうと思う。