黒猫の額:ペットロス日記

息子は18歳7か月で虹の橋を渡りました

アイシテル~絆

先週、9月21日に放送があったドラマ「アイシテル~絆~」を見た。見てから感想を書き込むまでに時間が経ってしまったが、これは特に事情があったわけではなく、私の怠慢です。
 
このドラマは、2009年に放送があった連続ドラマのスペシャル版として放送されたもので、前作の設定から20年余りたった後の加害者家族を描いている。前作は、加害者家族の方が中心ではあったけれども、被害者家族も描いていた。なぜ今回は被害者家族の存在を全く描かなかったのか、疑問である。
 
まず、前作を振り返る。稲森いずみ演じる主人公・さつきと、山本太郎演じる夫との間の小学生の息子・智也が、年下の小学生の男の子「きよたん」の命を奪う事件を起こす。夫は職を失い、引っ越し先でも夫婦は中傷を浴び、さつきの母が実家で教える書道教室からは生徒が消える。さつき夫婦はその実家に身を寄せ、1年後、息子は社会に戻ってくる。最終回では弟が生まれていた。
 
被害者の側は、きよたんを愛する父は佐野史郎、母は板谷由夏、そして両親に愛されるきよたんに嫉妬する反抗期の姉を川島海荷が演じていた。さつきから送られる謝罪の手紙にいらだつ家族、加害者の智也が社会に戻り、小学校に通い始めたと知って思わず見に行ってしまう姉、息子の死を悲しみながらも最終的に「生きて」とさつきに伝える母…等々の被害者の姿が描かれていた。
 
二つの家族が、最終回では橋の反対側の端を歩き、それと気づかずにすれ違う。よく覚えていないが、確か、もう被害者の家族にも笑顔があって…というめでたしめでたし的な描写ではなかっただろうか。
 
もちろん、被害者にも生活があって、事件後は直後から数年たってもずっとずっと四六時中泣いているということではないのだけれども(まだそうやって感情の表出ができる人もいれば、感情を表現するすべを失ってしまっている人もいるし)、でも、この連続ドラマ放送の時に感じたのは、被害者家族の立ち直りを簡単に描き過ぎているんではないかな…ということだ。
 
繰り返し書いているが、被害者はこうです、と決まったものではない。千差万別で十人十色だ。けれど、傾向として、事件があってから十数年たっても人格の半分が凍りついたようになって、時間の半分が事件から時を刻まなくなってしまったと語る被害者の方がいたり、事件直後は家事が手につかず家中が荒れ放題だったの…などという話を聞くと、そういえば、「アイシテル」の被害者の家はきれいになってたよなあ、なんて思ったりしてしまうのだ。
 
私が知るだけでも、被害者家族の中でも事件への向き合い方がそれぞれで、そのために家族間の軋轢が生まれたりもし、夫婦が互いにつら過ぎて支え合えず、離婚に至るケースもあった(こういった点は「それでも、生きてゆく」はそうだろうな、そういうこともありがちだよね、と理解しやすい描き方がされていた)。
 
中でも、夫婦の意見対立が表面化しやすいこととして、裁判があったように思う。最近は多少改善されたのだが、それこそ事件がドラマのように20年もさかのぼるのだったら、ろくに被害者側は事件についての情報も知らされないままだったはず。そうすると、なぜ自分たちの子供が殺されなければならなかったのかを知りたいと強く願えば、民事訴訟をわざわざ起こして加害者側を法廷に引きずり出すしか情報を知る手立てがなく、それなのに新聞には「一億円の損害賠償を求めて提訴」という見出しが躍るから、「金目当て」「子どもの命を金に換えるのか」といういわれのない誹謗中傷に悩まされることにもなった。
 
そうすると、裁判を起こして良かったのか悪かったのか、被害者家族で重い争いの種になってしまうと聞いた。
 
そのほか、縁起が悪いと周囲に敬遠されたり、何か悪いことをしたから殺されたんじゃないのと落ち度を散々探られるような事があったり、何より、被害者家族は自分が何かをしていれば子どもは殺されなかったんじゃないかとずっと自分を責め続ける。家族の誰かを責めたりもする。誰が許しても、被害者だからこそ自分や自分の家族を一生許せなかったりもするのだそうだ。
 
とにかく、そういった被害者側の重層的な苦しみが、連続ドラマでは簡単な話に集約されてしまっていたような気がしていた。
 
それで、今回放送された「アイシテル~絆」だが…とうとう、被害者の姿は一切描かれることがなかった。20年もたったのだから、被害者家族は「きよたん」を失った痛みを忘れて明るく楽しく生きてるさ、とでも制作者は思ったのだろうか。苦しんでいるのは加害者家族の方だけとでも言いたいのだろうか。
 
ある被害者の母親が昨年11月に出した歌集の巻頭言には、このように書かれている。「事件から十年以上経ちました。何年過ぎても悲しみは消えません。強くなるばかりです。罪もない我が子を残酷な方法で殺害された母として、又、無念に逝った息子へ思いを重ねて、日々の胸の内の泣き言、恨みの言葉を書き連ねました。そう、これは被害者本人ばかりでなく、後に残った遺族にもくやしさ、つらさは死ぬまで続くのです。」
 
去る者日々に疎し、などと都合のいい言葉は、被害者家族には通用しないように思う。
 
以前にドラマ「それでも、生きてゆく」の際にも書いたとおり、加害者やその家族をあまりにも通常の人たちに近づけ過ぎて、優等生的に描き過ぎではないのか。加害者家族になったらこうやって被害者側に真摯に謝罪をしなくてはいけませんよ…と社会的に啓蒙する意味も、優等生的な加害者家族をドラマに登場させる意味にはあるのかもしれないとは思う。
 
けれど、普通の家族に生まれた普通の子が事件を起こして、社会はショックを受ける…という構図が、本当に成り立つのか、本当に「普通」なのかと問いたくなる。
 
普通に見えるだけで、普通ではないから、他人を傷つける意図を以て一線を踏み越えているのだと私は思う。頭の中で想像するのと、実際に行動に移すのをいっしょくたにしてはいけないだろう。一線を踏み越えるという高いハードルを越えたら、それは普通のことではないし、普通の人ではないだろう。だから、あまりにも加害者側や加害者家族に視聴者が共感できるつくりにドラマがなっていることに、違和感をどうしても感じてしまう。
 
兄の起こした事件後に生まれた弟・直人を岡田将生のようなイケメン俳優が苦悩たっぷりに演じ、支えるのは小さい頃に母親から虐待を受けて育ったという設定の水川あさみリストカットの跡が痛々しかった。自傷行為は、心の傷が痛すぎて、それを紛らわせるために身体を傷つけるという、自殺を避けて生き延びるためのギリギリの緩和策だと聞いたが、そんな被害者側の水川あさみには、被害を受けた経験から、人の苦しみを感じ取り共感できる感受性が豊かに育っていたのだろう。
 
そのような豊かな感受性を、どなたかがきちんと、ドラマでは描かれることがなかった「きよたん」家族にも向けてくれていることを祈りたいものだ。
 
稲森いずみのインタビュー記事が、番組放送前に新聞紙上に掲載されていた。見出しは「再び演じる悲劇の母」となっていた。加害者側の母が「悲劇の母」として遇されるのか…では、被害者側のきよたんの母のことは何と表現するのだろうか。同じレベルの悲劇の母、では済まないはずだと思った。